当社の考え
2025/08/29
音を“曲げる”という発想―音響メタマテリアルがもたらす静かな革命
私たちが日常で接する「音」は、空気の振動として耳に届くものです。壁に反響したり、トンネル内でこもったり、隣の部屋から漏れてきたりする音は、私たちにとって当たり前の現象です。しかし、「音をねじる」「消す」「隠す」といった、従来の常識では考えられなかった操作が、いま現実になりつつあります。そのカギとなるのが「音響メタマテリアル(Acoustic Metamaterials)」と呼ばれる、革新的な人工素材です。この素材は、音波を物理的に“制御する”というまったく新しい発想に基づいています。これまでの防音や吸音の技術が「音を抑える」ことにとどまっていたのに対し、メタマテリアルは「音を操る」時代を切り拓こうとしています。そしてこの変化は、単なる技術革新にとどまりません。都市の騒音問題、オフィスの音環境、住空間のプライバシー、さらには医療や通信分野にまで波及する、巨大な市場と収益機会を生み出す可能性を秘めているのです。
メタマテリアルとは何か―構造が性質を超える時代
「メタマテリアル」とは、「meta=超越した」「material=素材」という言葉が示す通り、自然界には存在しない特性を持つ“構造由来の人工素材”です。一般的な素材は、その物質そのものが性質を決定づけます。たとえば鉄は硬く、ゴムは柔らかく、水は流れます。しかしメタマテリアルは、プラスチックや金属といった既存の素材に、ナノ〜ミクロレベルで精緻な構造を施すことで、新たな機能を付与します。この構造的アプローチによって、たとえば「負の屈折率」「選択的吸収」「波の非対称透過」など、従来の物理法則を“ねじ曲げる”ような現象を実現可能にします。光の世界では「光学メタマテリアル」がすでに話題となっており、不可視マントの開発や高性能レンズなどで応用が始まっていますが、近年では音波の世界――すなわち「音響メタマテリアル」が急速に注目を集めています。その代表例が、メディアアーティスト落合陽一氏が展開する「iwasemi」です。構造によって音の伝播を制御するコンセプトは、アートの領域を超えて、建築、プロダクト、医療、そして未来の社会インフラにまで広がろうとしています。
音響メタマテリアルの魅力―音を“消す”“閉じ込める”“選ぶ”
音響メタマテリアルが世界中で脚光を浴びているのは、「音を消す壁」や「音の透明マント」と呼ばれる先進技術の登場がきっかけです。従来の吸音技術は、多孔質素材(スポンジやグラスウールなど)を使って、音を“吸収”するものでした。音波のエネルギーを熱に変換することで減衰させていたのです。しかし音響メタマテリアルは、物理的な構造によって、音を“閉じ込める逆位相で打ち消す特定方向に反射させる”といった制御を行います。たとえば、蜂の巣状のパネル構造を持つ薄型素材で、たった数センチの厚みでも90%以上の音を遮断することに成功している研究があります。しかもこの素材は軽量かつ薄く、従来の重厚でかさばる吸音材とは比べ物にならないスマートさです。この技術は、オフィスで隣人の声だけをシャットアウトする、家庭で特定の壁だけプライバシーを守る、あるいは鉄道の車内で一部座席だけ静音化する、といった使い方も可能になります。まさに、音を「デザインする」「選択する」という新しいライフスタイルが、音響メタマテリアルによって実現されつつあるのです。
社会課題に応える技術―都市のストレスとウェルビーイング
現代社会は、かつてないほど「音のストレス」に満ちています。都市部では、24時間絶え間なく交通騒音、工事音、BGMが流れ続けます。オフィスではオープンスペース化が進む一方で、隣人の会話やタイピング音が気になり、生産性やメンタルヘルスに悪影響を及ぼすこともあります。住居においても、隣室や上階の生活音が深刻なストレス源となるケースが増えています。これまでのグラスウールやロックウールといった多孔質吸音材による防音技術では、厚みや重量、施工コストの問題から、特定の用途にしか対応できません。しかし音響メタマテリアルは、薄型・軽量・高性能でありながら、空間の選択的な静寂化を可能にすることで、現代人の「耳の健康」に直接アプローチします。
この流れは、企業の「ウェルビーイング戦略」や「スマート建築」の中でも非常に重要な要素となりつつあります。たとえば、テック企業がオフィス環境を改善する際に、騒音対策として音響メタマテリアルを導入することは、従業員満足度や定着率の向上に直結します。さらには、高齢者施設や病院において、静音環境を作ることがリハビリ効果や睡眠の質向上にも貢献するとの報告もあり、社会的意義も非常に高いと言えるでしょう。
応用領域と未来市場―音の“再定義”が産業を変える
音響メタマテリアルは、防音・遮音分野だけでなく、多様な応用が期待されています。たとえば、特定の周波数だけを通す設計により、補聴器や医療用超音波装置の精度が飛躍的に向上します。また、音を一方向にだけ通す素材を用いれば、機械の振動伝播を制御したり、音によるセンサーの精度を高めたりすることも可能です。建築設計においては、従来の吸音・反射設計を超えて、少ない材料で理想的な響きを作り出す“構造音響設計”が可能になり、コンサートホールや劇場、放送スタジオのあり方が変わるかもしれません。
音楽分野でも、特定音域の強調や無響室代替素材としての活用が進めば、スタジオコストの削減や新しい録音環境の提供が期待できます。これらはすべて、従来の「音を減らす素材」ではなく、「音を操るテクノロジー」としてのパラダイムシフトに基づいています。実用化にあたっては、広帯域対応・コストダウン・大量生産といった課題は残るものの、各国の研究機関・企業が参入し始めている今、この分野はまさに“技術進化の前夜”にあるといえるでしょう。課題こそが、今後の産業スケールにおける大きな収益機会でもあります。
建材としてのメタマテリアルの市場参入や、ウェルビーイング住宅の標準装備化、病院・ホテル・学校などの公共施設への採用が広がれば、音響メタマテリアルは社会インフラとしての地位を獲得し、大きな事業領域を形成します。さらに、持続可能性(サステナビリティ)という文脈でも、軽量・薄型・少資源での高性能実現という特性は評価され、既存の素材と比較して環境負荷の低い次世代建材として注目されています。静けさや快適性は、見えない価値であるがゆえに、付加価値としての価格転嫁もしやすい領域です。素材メーカー、建材業者、家電メーカー、音響機器企業など、多くのプレイヤーにとっての新しい収益機会が広がっています。
音を“見えなくする”時代のはじまり
音響メタマテリアルは、ただ騒音を防ぐ技術ではありません。それは「音の聴こえ方」そのものをデザインする技術であり、人間の心理、生産性、健康、創造性にまで影響を与える可能性を持つのです。人間は、目で見る情報よりも、無意識に耳で感じる環境の変化に敏感であるといわれています。だからこそ、静けさは単なる「無音」ではなく、「質の高い音環境」として設計されるべきなのです。都市に静寂を、建築に快適さを、医療に正確さを、そして日常にやさしい“響き”を――音響メタマテリアルは、これからの社会にとって、目に見えないけれど確かな価値をもたらすインフラとなるでしょう。
今や、静けさは「買う」ものではなく、「創る」ものへと変化しつつあります。そして、それは都市の騒音問題を解決し、人の心と体の健康を守るためだけでなく、新しい製品、新しい空間、新しい表現を生むための“素材革命”でもあるのです。静寂も、心地よさも、音楽の臨場感も、これからは「構造」で生み出せる――。
音の未来をつくるその最前線に、音響メタマテリアルというテクノロジーが、いま静かに立っているのです。